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交流を通じて、アジアのひとびとに寄り添い、そしてつながる①

ソーシャル・アクションを自らの使命にして


□中国留学で気がついたこと


 私が、アジアから来た人びとに寄り添い、彼ら・彼女らとまさに時間を共有し、時に支援するようになったのも、 中国・大連での語学留学がきっかけにある。 さらに付け加えると、それまで、まったくと言ってよいほど、中国には関心がなかった男が、その国に留学するに至るまでには、一つのエピソードがある。


学生時代からの友人に、大学教員としての就職が決まったということで、彼のためにお祝いをしようとなった。 まずは、飲み会を行ったのだが、その場の勢い(?)で、本人の研究フィールドである「中国に連れて行け」となった。 それは今から30年ほど前、80年代後半のことで、日本と中国との関係も、まだまだ開かれていない時代であった。 そのツアーを通じて、私は、中国に違和感をまったく持たなかった。というより、むしろ故郷に戻ったような不思議と落ち着くような感触を持ったことに気づく。
現地の方と、言葉がわからないのに語りかけている姿を同行の者が見て、「通じていないぞ」と止めに入ったりすることが度々だった。 そのツアーを期に、一気に「中国好き」となり、帰国後は、「イチに中国、ニに中国」のような状態になったのである。(※5)。


それから約1年後、中国に渡る語学留学となった。
 現地の大学で中国語(漢語)を学び、外に出かけては、現地の方と接点を持つ。
街場では、カメラをもって撮影していると、多くの視線を感じることが度々あった。
中国国内で、カメラを持つような姿があまり見かけなかった時代である。
言葉ができるようになって、彼らに話しかけ、彼女たちと語り合うようになった。
列車に乗って、こちらが日本人だとわかると、人びとの好奇の目に包まれ、必ずといってよいほど、いろいろと質問攻めにあった (あんたは結婚しているのか、給料はいくらぐらいもらっているのか、 肉はいったいいくらなのかなどに至るまで)。


1年間の語学留学を終える頃、たくさんの経験を重ね、感じることが多くあった(※6)。
そして、自分の「中国病の熱」がおさまるどころか、ますます高じていることに気づき始めた。


そして同時に、どうして他の日本人は、私と同じように「中国が好き」とはならず、逆の気持ちになるのだ、という疑問もわいてきた。 というのも、こんな場面にたびたび出くわしたのだ。中国・大連にいた時に国内旅行をしたし、その後も中国に年に2、3度は出かけた。 北京はもちろんだが、大学が連れて行ってくれた丹東(北朝鮮との国境の町)やハルピン(ロシアの影響が色濃い)、 正月休みを利用して南の広州から南昌、井岡山、瑞金と行った1ヶ月の一人旅などだ。


それらの旅を通して「こんなところにも日本人が来て暮らしている」と驚くことが何度かあった。
「時代はボーダレスの時代なんだ」と感心したものだが、 それらの日本人から話を聞いてみると、私の受け止めがまったくの誤解であることがわかった。 ほとんどの人が、現地に住みながら「あいつらは臭い、バカだ、鈍い」といった否定的な認識をしているのだ。
これにはガクゼンとして、どうして日本のモノサシで、彼ら・彼女らを見るのだろう。
彼ら彼女らを、解釈は抜きにして、あるがままにどうして見えないのだろう、と疑問が大いにわいた。
そもそも彼・彼女らはたまたま中国に生まれてから中国人、私たちは日本人なのに、それなのに、それぞれの人を評価するなんて……。 そんな解釈や評価をする人びとに対して、違和感というか、憤りすらわいてきたのだった。そこで考えたのが、コーディネイトの必要性だった。
間に立つ者がいて、少し気を配ればもっと理解が進むのに、というものであった。
そして、その考えの上で出た結論が「日本と中国の間にいるようなところに身を置きたい」であった。


※5 当時の私は、それを「中国病にかかった」と表現した

※6 大連での語学留学を終えて綴った『大連の街角から』(IFCC出版)を上梓した。


連載「交流を通じて、アジアのひとびとに寄り添い、そしてつながる」